ただ過ぎ行くだけの日々

数行だけの、日常のちょっとしたことを切り取った日記を見て、こうあるべきだよなぁと何故かしっくりきてしまった。
が、ここは私にとってそういう場所ではないので、いつも通りに綴る。

あれから実は、まぁまぁ話した機会があった。
が、基本的にお前が悪いとしか言われなかったなぁという、失望しか得られなかった。
だからさ、私に悪い所もあるの分かってるけど一緒にいると泥沼だから困ってるって話なのよ。私が悪いではい終了、じゃないわけ。
じゃあどうすればいい?って聞くけど、これまで何度も選択を私に委ねるなと言ってきたわけで、まさにそういうところが負担なんだって!としか。本当に私の言いたい事わかってないな…。
なんかもう言葉でどうにかできる気がしない。だから中途半端に終わってしまった会話を、また再開する気も起きない。だって伝わらないんだもん。

なんやかんや、その後気を遣われているのは感じる。
でももはやそういうの求めてないわけ。そこからして認識間違えてる。私からすれば、あとから「自分は頑張ったのに」って言いたいがための言い訳作りにしか思えない。

かといって日常は穏やかで、何かを変えるには何かが足りない。いや、私のやる気が足りないのか。
水はいつでも、低きに流れている。
でも何かあった時に、私の味方にはなってくれないことは確かなんだ。それだけは話すたびにいつも突きつけられている。私は私を守らなくちゃいけないんだ。

誰かに認められたい人生

たまにはライトな話題で、自慢話をすることにする。

今週のお題「表彰状」

私の人生の最高時期は、間違いなく小学生であった(断言)。
授業で分からない事とかも無かった。特に予習も復習もした覚えがないんだけど、テスト100点は当たり前。成績表も◎ばっかりだった。(性格面の評価が振るわなかったのはその反動だと思いたい)
そんな感じだから、夏休みの宿題でいえば、読書感想画、読書感想文あたりは何回か、工作でも賞を取ったことがある。あとは書写とかもそうかな。とにかく、表彰状をもらう機会は割と多かったのではないかと思う。
当時小学校教師が言っていたことには「夏休みの宿題なんていうのは、親子で協力することにも意義があるから、親に手伝ってもらうのも醍醐味の1つ」だってさ。まぁ大っぴらに言うことではないが、先生方もそのあたりは心に留めているらしいよ。
国語と音楽含む芸術分野は母による教育の賜物なので大変感謝している。あちこちの美術館に連れてってもらったし、小さい頃から本を与えてくれていた。ピアノも書道も習わせてくれた。

そんなこんなでとっても優秀な小学生だった私は中学をお受験し、危なげなく受かったもののまぁまぁ落ちこぼれて普通の人となった。国語と芸術系と英語は普通ちょい上位で、なぜか体育の成績も伸びたけど、理系と社会系は全然駄目です。苦手。
それからたのしい学生生活の内にコミュ障ではなくなった一方オタクになったが、そういえば中高は表彰とか縁遠かったなぁ。大学もないわ。
学生の内は表彰される機会って社会人よりもあると思うんだよね。あとは応募するかどうか、頑張るかどうかの違いしかない。でも私はそういうのに熱い人間でもないし興味もないし、賞をもらうようなことも今後ないと思っていた。
が。社会人になってからも、実は二度ほどいただいているんだよなぁ。

一度目は、県下の系統会社でやるコンクールの写真の部。100点以上応募があったと思うんだけど。個人で最優秀賞をもらった。
これはちょっとビギナーズラック感もあるんだけど、一応練った作品だったし自信もあったので素直に嬉しかった。
ちなみに金一封は出なかった…立派な盾なんか場所取るだけで一文の役にも立たないんだから、撮影資材とかにまわせるものをくれよ!図書カードでもいいよ!って思った。

二度目は、全国の系統会社がやるコンクールの広報誌部門。個人ではないけど、弊社が最優秀賞をもらった。
学生時代もチームプレイからは遠かった私が、大人になってチームとして取り組んだもので、しかも全国と名のつく機会に表彰される日が来ようとは夢にも思わなかった。
ちなみにこれは金一封がでましたヤッター☆でも地味に楽しかったのが、何か所かから講師として研修に呼ばれたりして、管外出張に行けたことかな。普段遠くに行くことが無いので。

私は人に認められたい欲の強い人間だと思う。でも努力できない人間でもあるので、てっとり早くできることで認めてほしいし褒められたい。怠惰だねぇ、怠惰だよ。
でも普段の仕事は数字で成果を表すのがなかなか難しいこともあり、褒められるって事がない。他の部署でよくきくような『「ありがとう」と言われることがやりがい』みたいなこともない。
そんな中で、えっへん!!これを見よ!!と分かりやすく威張れるようなものをいただけたことは良かったなーと思っている。仕事のモチベーション的な意味でもね。

でも忘れてはならないのは、どちらの結果も、やっぱり母の「国語と芸術系の教育」の成果なんだよなぁ…3つ子の魂百までってやつか?こりゃもうお母さんに足向けて寝られないわ。

革命前夜

また3か月位が経過したが、何も変わらぬ毎日だ。表面上は。
向き合うなら今だ、というタイミングがあって、それを逃さず捕まえられたので、伝える事だけはできた。
問題は、伝わり切らなかったようだ、という点に限る。

元々説明が足りないと言われることが多かった。
が、これまでの人生の中で、こんなに物わかりの悪い人に出会ったことがない、というのが私の意見である。他の誰と話すのにも、ここまで苦労した事はなかったのだ。
どうやら、(相手の)10を知ってもらうには(私の)10ではまるで足りないようなのだ。が、どこがどう分からないか分からないので、起こる前には直しようもなく。

そうこうしている内に、私が間違っているのだろうか、と思うようになった。
相手が普通なのか?私がおかしいのか?普通とはそもそもなんだ?
「お前が悪い」と誰かに言われるのが怖くて、自分が悪いのでは、と自分で責める事が多くなった。それが日常的に起こり始めていて、自分で自分を『損なっている』ということに自覚がなくなっていた。
私の味方は、私だけだったはずなのに。

そんな時に、何を言っているんだ、と私を怒ってくれる人がいた。
「自分が認めたお前を、お前であっても否定するな」と。
私個人への敬意と愛情を感じた。心から有難かったし、同時に申し訳なかった。そして、認めてもらえる自分でいたいと思えた。もちろん自分自身でも。
とにかくそうして、私は私を取り戻した。

この取り戻した私が正しいかは今なお分からない。
人生で何が正しいのかなんて、はっきり分かる事の方が少ないのかもしれない。
そんな時に頼りになるのはやっぱり、自分自身だけなのだ。
自分が後悔しない選択を、という最初の場所に、私はようやく戻ってきた。今は、息をするのが楽だ。見える景色が違う。遠くまで見渡せる気がする。

このまま、私の気が済む方向へ走っていきたい。前へか後ろへかはわからないが、今いる場所が私の価値を損なっていくはもう分かっている。ここから抜け出す体力が、志気が、今ならある。
結果は想像もできない。わからない。
それでもなぜだか高揚している。私には私がついている。
あとはやるだけだ。

書き出すしかないと追い詰められて

今週のお題「私がブログを書きたくなるとき」

タイトル通り、それ以上でもそれ以下でもない。
私にとってブログというのは、思い悩んだり、興奮していたり、混乱していたり、とにかくたくさんの言葉が頭の中をぐるぐる廻ってしまっている時に、とりあえずどうにかアウトプットするための場である。多分この辺は以前も言った事があったと思うが。
順序立てて明文化することで、同じ言葉が堂々巡りする状態を解消しているのだ。
一度外に出してしまうと頭の中が整理されるのか、ぐじぐじ思い悩むボリュームが少なくなる。
メモとは忘れる為に書くものだ、とは誰の言葉だったか。

そんな内面的なもの、日記で充分だろうと思ったこともある。
でもそれだと不十分で、なぜかって言えば、見られるかもしれないという体で書かないと、自分を納得させるものができないから、という結論がでた。
その方が自分の感情や状態、その理由を客観視できるのも良いのかもしれない。


そんな風に書かれた記事は大体黒歴史なんだけど、後から見てもその時の自分の感情が鮮やかに思い出されて、これも一つの成長記録だよなぁと思う。だから消せない。よくて非公開。
そして不思議なことに、いつの自分がみても、その感情は理解できるのだ。きっと黒歴史も繰り返されるものなんだろう。


前回の記事から3か月弱が経過したけれど、問題は何も解決しておらず、むしろ状況は悪化している。めでたく通院中なり。
心の方じゃなくて身の方が先に根をあげた、というか、まぁまぁ健康なはずのからだの方に先に出るなんて、私の心っょぃって驚いている。笑い事ではないが。
そんな今も、ここ数か月の日記はだよね!だよね!!の宝庫なので、やっぱり書いて残すことに意味はあるんじゃないかと思ったり、いやいや書いて忘れたら意味ないこともあるよ!と思ったりしている。

その時のことをかきだしてはきすてることに意味がある。

選択するという苦行

最近、「選択」ということを考える。
普段何気なくいろいろなことを選んで・決めているけれど、自分一人ならともかく、他人の介在する選択をし続けることが重荷になってきている、という自覚が芽生えた頃から。

そもそも、私は何かを決めたりする時、その結果に責任を持つこと、後悔の有無なんかについて思いを馳せることが多い。どんなに小さいことでも、できるだけ後から愚痴を言わないでいたいからだ。
まぁそれでも後悔はあるけど、自分の選択の結果だから仕方ないな、ならまだ諦めもつくので。
だから「選択」とは結構、しんどいというか、面倒というか、苦手とはまた違うんだけど、考えてみれば好きではない部類の作業だった。
できれば誰かの選択に流されていきたい。私はとても我が儘でもあるし、こだわりもありはするけれど、他人の選択に身を任せる(その代り文句は無し)っていう楽な選択肢を基本的には選びたい。
それが今、あまりできない状態であることにふと気付いた。

①選択肢を探してくる
②自分や他人の好みを考え、調整する
③選ぶ

①はめんどくさい。が、②は更にめんどくさい。③は②のせいでめんどくさい。
考えすぎとは思うけど、でも思い返してみると、やってるんだよこれらをさ。
毎日の食事のことから、イベントごとの準備のことから、旅行の日程まで、いろんな時に。
でもこういう過程が、相手の「なんでもいい」の上に乗っかってるのですよ。
その「なんでもいい」は、『どうでもいい』を前提としてたり、考えもしないでとりあえず任せてるたりするのですよ。
でも「好きにしていいよ」って、自分は相手に合わせてる・相手を立てているみたいな言い方をするのですよ。

はぁーっ?!?!ふざけんなよ?!?!?!(ご乱心)

いやっ、まぁでもね?
別に絶対に嫌!!!!断固拒否!!!!!というわけではないのよ、さすがに。
ただ、いつもこれやらされるのはどうなのよ?って話。私だって時には楽したいよって話。
それに慣れちゃった相手がさらに楽するっていうのも、まぁ正直イライラはするよね。何をひとりだけ楽をしてるんだと。


でもこういうのって結局、気になる方がやる羽目になることが多いのよね。なんて損な役回り。
相手の意志を尊重して好きなようにさせてあげるのと、相手の選択に任せっきりでおんぶにだっことは、全く違うということを理解して、今後に活かしてほしい。
まずは選択肢を持って「どう?」って訊いてほしい。2回に1回は。

つらつら

夏ですね、暑いですね。

何十年後のことを思う。
「あの頃はこんなことで、もうだめだー!って、将来の事なんか想像できないって言ってたのにね」
と笑うような将来が、来るんだろうかと。
そんな未来が来てしまうことが怖いなんて、誰にもわかってもらえない気がしてる。

一方、憧れる現実は、私にとっては遠い国のできごとのようだ。
夢のような話。手が届かないような。
昔からそれは、現実感のないものだった。テレビの向こう側のアイドルに恋するような、手応えのない、でも焦がれるなにか。たまに触れ合えるものだから、余計に不思議な感覚が残る。
前よりも近付けるようになったはずなのに、いまだ一向に近くならないのは、何故なんだろう。

私の一番の味方は私であるし、究極、私には私しかいない。
いつからかずっとそう考えていて、だから後悔のないように、その時に自分が何を望むかということを真剣に自分にヒアリングしながら、これまで歩んできた。おかげさまで、今までの人生、自分が決めてきたことでの後悔はあまりない。妥協の結果もあるけども、それを含めても。
やめとけばよかったなと思うことの多くは、やってみてから駄目だったと気付くことばかりだ。結果論でしかない。予想がつくことならまだしも、大抵の場合、予想外の問題が発生するんだもの。
その最たる予想外が、タイミングだったりする。
総じて悪いとは思わない。ただここぞっていうタイミングに報われない。
それでも運命なんかは信じない。
そんなものに頼るよりも、手の届く、一番どうにでもなる自分がどうにかしようと足掻く方が確実だし、信じられるし、あとから文句もでないから。

一方、ろくでもない人間である割に、周囲に恵まれた人生だなと思う。
類は友を呼ぶというが、私も周囲にとってそういう存在であればいいのになぁと思う。

クーラーは効いているはずなのに、落ち着かない。思考がふらつく。

考える⇒整理する⇒話す

やはりアウトプットせねばまとまらぬ。
昔はそれが、ただ日記でよかった。日記というよりポエムだったけど。
後から自分で見てその時の気持ちがわかるから、なんやかんや良い形で残っているんだと思う。

久々にあれこれ女子会トークしたら、少し落ち着いた。聞いてくれる人がいるということは、とても幸せなことだ。そこでいろいろと整理は着いた気がする。
①もう少し大人になること(ドン引きするような学生ノリは言語道断)
②興味の幅を広げること(お互いに成長するという志を持つ、積極的になる)
③効率的に生活すること(今をなんとかすればいいわけじゃない。生活は続いていくので)
大体望んでいることはこの3つ。多分この三か条はプリントアウトして提出すべきやつ。
まぁ、どれも再三言ってるんだけどね。

相手が受けいれるからといって我儘放題・小言だらけでいるのもストレス。結局後悔して自己嫌悪に陥るんだもん。自分勝手?そんなんわかっとるわ。
それに、今の状態でこれからずっと一緒にやっていく、という長い目が私にはないのだよね。だって短い目で見て今すべきことって我慢なんでしょ?我慢の積み重ねの結果の長い期間って、なんだそれってなる。その内慣れる?慣れたくなんかない。
身内が死んで、意識も少し変わったんだよね。何を現状に甘んじていることがあるか、と。
いつ死ぬかもわからん人生を生きているのに、そんなアホなことしてられないじゃないか。(私は大きな持病もないし、健康診断の結果も異状なしの健康優良児だけども)

今の生活で失って困るものはないんだな。
むしろ、今の生活で手に入れそこなっていくことの方が怖い。
隣の芝生に憧れたっていいじゃない。自分とこに満足してたら、それまでだ。