人のことを考える1ヶ月

この1ヶ月、比較的他人を意識する暮らし方を心掛けている。
きっかけはもちろん前回大打撃を受けたあの一件なのだけど、その後すぐに実家に移り住んで環境が変わったこともあり、これまでは「してくれないこと」に対して過敏だったのが、「してくれてありがたい」っていう視点を新鮮に持てるようになったことも大きかった。良い意味で今は、以前より間違いなく余裕を持てている。
これからの人生のために、良い気付きをもらったし、必要なことを学び直していると思う。

でもそもそも私は、他人に対する関心が少ないのだろうな、と今は思う。というか、自分しか可愛くない。
中高生の多感なお年頃。毎日泣き暮らしていた時期があったのだけど(原因は些細な事なので取り上げない)、あまりに誰もが頼りにならなくて、救いが無くて、辛くて、そんなある時ふと「私には結局、私しかいないのだ」と思ってしまって、それが本当に腑に落ちてしまった。そしてその延長線上のまま、私はここまで来た。
自分が正しいと思うこと、やりたいことに沿って生きてきた。他人に対して否定的に生きてきた。「でも」「けど」「だって」がすぐに口に出る。(我ながら最悪だ。なんで皆こんなヤツと友達でいてくれるんだろう)
他人がどう考えるかはあまり重要ではなくて、ある程度の世間体に縛られてはいるけど、その中でもできるだけ、私は私が望むことを大切にして生きてきた。私以上に私を大切にしてくれる存在は無いし、私を守る存在もいないと思っていた。今もそう思っている。
…一応言及しておくと、両親や姉妹仲は大変良好で、特に問題はないです。だけど家族だって所詮は他人であり、相性もあるし、絶対でもないとは思っている。大切じゃないわけではないけど。
とにかく、そういう認識をしたまま、この十何年か生きてきた。自分のことを利己的だと思っている。最終的な所、他人はどうでもいい。
だからなのか、私は常に、私の絶対的な味方が欲しかった。


さて、何を言おうと思ったんだったかな。

最近立て続けに「無礼」「失礼」と評されたこともメモしておこうかな。
自分でもそう思ってる時は多々あるものの、無意識下でそう思われる行動してる事が多そうな気がしてきて、今は割と、誰かと何かをするとかっていう事が怖い。
もっと私が自立していて、もっと一人で生きていける人間だったらよかったのに。人間一人ではいきていけないなんて、嘘であってほしい。

「周囲に求められている自分」を演じているっていう人がいる。私にはとても無理だと思う。
まず、他人が何を考えているか察するのが驚くほど苦手なのだ。観察力もない(これはきっと興味が無いからだろう)
実際のところ、人が考えている以上にいろんなパターンの想定とかはしているけど、多分どれも的外れだろうし、結局そのどれもを表に出すことは無い。
この辺には、私のプライドの高さからくる「間違いたくない」って意識が働いているのかもしれない。そうだ、私の問題はここにもある。


人に興味が無いなんて言い訳だと思う。
でも私は、私のことでいつだって精一杯なんだ。私を取り巻く周囲を大切にすることが、こんなにも難しい。
ポジティブな気持ちで今回の日記は書き出したはずだったのに、今はもう逃げたくてたまらない。

いつでも“ありがとう”と“ごめんなさい”は私の人生のキーワードであり、課題だった。そしてこれからもずっとそうだ。
最近忘れかけていたことに気付く余裕ができたことだけは、良かったことだと思っている。