選択するという苦行

最近、「選択」ということを考える。
普段何気なくいろいろなことを選んで・決めているけれど、自分一人ならともかく、他人の介在する選択をし続けることが重荷になってきている、という自覚が芽生えた頃から。

そもそも、私は何かを決めたりする時、その結果に責任を持つこと、後悔の有無なんかについて思いを馳せることが多い。どんなに小さいことでも、できるだけ後から愚痴を言わないでいたいからだ。
まぁそれでも後悔はあるけど、自分の選択の結果だから仕方ないな、ならまだ諦めもつくので。
だから「選択」とは結構、しんどいというか、面倒というか、苦手とはまた違うんだけど、考えてみれば好きではない部類の作業だった。
できれば誰かの選択に流されていきたい。私はとても我が儘でもあるし、こだわりもありはするけれど、他人の選択に身を任せる(その代り文句は無し)っていう楽な選択肢を基本的には選びたい。
それが今、あまりできない状態であることにふと気付いた。

①選択肢を探してくる
②自分や他人の好みを考え、調整する
③選ぶ

①はめんどくさい。が、②は更にめんどくさい。③は②のせいでめんどくさい。
考えすぎとは思うけど、でも思い返してみると、やってるんだよこれらをさ。
毎日の食事のことから、イベントごとの準備のことから、旅行の日程まで、いろんな時に。
でもこういう過程が、相手の「なんでもいい」の上に乗っかってるのですよ。
その「なんでもいい」は、『どうでもいい』を前提としてたり、考えもしないでとりあえず任せてるたりするのですよ。
でも「好きにしていいよ」って、自分は相手に合わせてる・相手を立てているみたいな言い方をするのですよ。

はぁーっ?!?!ふざけんなよ?!?!?!(ご乱心)

いやっ、まぁでもね?
別に絶対に嫌!!!!断固拒否!!!!!というわけではないのよ、さすがに。
ただ、いつもこれやらされるのはどうなのよ?って話。私だって時には楽したいよって話。
それに慣れちゃった相手がさらに楽するっていうのも、まぁ正直イライラはするよね。何をひとりだけ楽をしてるんだと。


でもこういうのって結局、気になる方がやる羽目になることが多いのよね。なんて損な役回り。
相手の意志を尊重して好きなようにさせてあげるのと、相手の選択に任せっきりでおんぶにだっことは、全く違うということを理解して、今後に活かしてほしい。
まずは選択肢を持って「どう?」って訊いてほしい。2回に1回は。